1月29日(木) 昨日HPビルダーを使って花・花・花のページに文字を入れていたら、どういうわけだか縦書きになってしまった。何処かを間違って押した記憶はあるのだが、どこを押したかわからない。何度やっても駄目。エンターを押したとたん縦書き。歯の調子は悪いし、踏んだり蹴ったりと言うのはこんな事と思った。あれこれ開いてあれこれ押して何がなんだかわからない時、横書きに変わった。どうして戻ったかわからない。後が怖いなあと思う。ちょっと扱いすぎたかなと不安。でもまあしょうがない。パソコンを一台壊さないと本当にパソコンの事はわからないと言うから。一年前より今のほうが上達している事は確かだし、少々パソコンがおかしくなっても前のようにパニックになる事はない。パソコンは治るものだし、駄目な時は新しいパソコンを手にいれればいいだけだと思っているから。パソコンにはまってはいるが、人とパソコンどちらかを取りなさいといえば、当然無条件に人を取るに決まっている。パソコンは人とのコミニケーションを取る道具で有って、それ以上でもそれ以下でもない。当たり前の事だ。そうおもうから、時々画面に現れるエラーメッセージに一喜一憂するのはやめた。突然「不正な操作をしたため強制終了」なあんて画面がでたら何もしてないと怒るのもやめた。ハイハイごめんなさいね、お気に召さなくてなんてつぶやいてやり直しする。大人になったもんだ。 |
1月28日(水) 歯医者に通いつづけて4年以上が経つ。もういいかげん縁を切りたいと思っているのになかなか切れない。私の歯の構造が普通の人と違う事をいま通っている病院の先生に指摘されてはじめていままでの色々な疑問が氷解したのだが、それからの長い事。こんなに長く懸かった理由のもう一つが私がひどい金属アレルギーで歯の治療に使われる金属をほとんど使えないと言うことに有る。経済を考えなければもっと早くできたのだが、いやはや。いよいよ待ったナシにしなければ仕方がないと決心したところ、踏んだり蹴ったりで仮歯の下が一部「しずいえん」(どんな字を書くかわからない)で飛び上がるほど痛くなった。その痛みを静めない事には麻酔も効かないとの事。今日は1時間の予約を取っていたが、結局その手当てだけで早く終わった。何もする気にならなくて家に帰ってさやの散歩以外家から一歩も出ていない。今日はうちの住人がいないので、息子と二人だけだったので、なにか食べに行こうかと言ったが、言った私が行くのが面倒になって結局「あるもの」と言う私のお得意のせりふで、とにかく冷蔵庫に入っているものを動員して五目寿司を作った。後は実だくさんの味噌汁。錦糸玉子はめんどくさいので煎り玉子にした。私が言うのもなんだけどとても美味しかった。私やっぱり料理上手かもしれない。と一人悦に言っている。それぐらい思わないと今日の疲労感は取れそうにない。パソコンをさわる気にもなれないし、明日のパソコン教室の宿題さえまだしていない。 |
1月27日(火) 本当は今日は音楽を聞きながら本を読む一日にする予定だったが、そうはならなかった。どうしても書かなければいけない手紙を悪戦苦闘して書いていた。文章を書くのが好きな私なのにどういうわけだか手紙が苦手で、書かなければいけない手紙をためている。書きかけの手紙なんか山ほどある。ひどいのは後ポストに入れればいいようになっているのに時期を逸して引出しの中なんてものまである。一つは字を書く事が嫌いな事。だからパソコンをはじめたようなものだ。ワードで打って署名だけ自筆という方法を出来るだけ取りたいと思っている。しかし世の中そうはいかないものもある。自筆の手紙じゃないと軽んじられていると思う人だって世の中にいるんだから。便箋を何枚も無駄にして書き上げた。そういう手紙がまだ何通か溜まっている。ため息が出そう。字を書く事、数少ない私の弱み。それなのに、最近墨で字が書きたいと思い出したのだから摩訶不思議。もちろん人に見せる気はさらさらないが、自分で楽しむのはいいかなという感じ。年を取って綺麗な字でなくても、味のある字なら良いかなという居直り精神がそういう思いにさせるようだ。歳を重ねるという事はなんと素晴らしい事だろう。花・花・花のページを更新した。 |
1月26日(月) 今日は久しぶりに本を買った。曽野綾子さんの「私日記1運命は均(なら)される」と「私日記2現(うつ)し世の深い音」の二冊だ。私は彼女の考え方がとても好きで、そしてものをハッキリ言う姿勢が大好きだ。本音と建前を使い分けない人で、人が避けて通るタブーをタブーとしないで自分の責任において文章とする人だ。必ずしも同じ意見ではない事もあるが、その潔さは尊敬に値すると持っている。文庫になりそうもないし、図書館にもなさそうなので買う事にした。この頃むしょうに本が読みたい。うちの住人からこれが面白いと3冊推薦されて手元にあるのだが、曽野さんを先に読もうと思う。テレビは当分つけない。好きな音楽を流して、本を読もう。 今日は太極拳の日だった。家の隣が会場だから休んだ事がない。ありがたいと思っている。しょうに有っているらしく、やって楽しい。始める頃肩が痛くて手がほとんどあがらない状態だったのに、特に病院に行ったわけでもなにかしたわけでもないのにこの頃だいぶ良くなったのも太極拳のおかげかなと思っている。流れるがごとき動きとは縁遠いが自分の姿は自分で見えないので勝手にうまくなっていると思う事にしている。ずっとしていればどうにかなるだろうという私のいい加減な性格がここでも生きているわけだ。いい加減と言う言葉は無責任なようだがこの言葉を私流に見ると「良い」「加減」必要に応じて加えたり減らしたりすればいいという、人間の知恵がふんだんに盛り込まれていると、思う(ちょっと強引かな?)。若い頃、これくらいの気持ちがあればもっと楽に私も生きられたと思うから、今辛い思いで生きている人にはそう言ってあげたくなる。 |
1月25日(日) 忙しかったようなそうでなかったような一日だった。こんな日の夕食は手をかけたくないので牡蠣の味噌鍋にしたら美味しくて、家族に好評だった。明日の朝はしたがって、雑炊に決まっているので楽々。手を抜いたと思わせないコツは美味しく作る事。だしだけは良い昆布を使って美味しく取る。これさえ守れば後は何でもOK。おいしいねと言って食が進む事請け合い。最近ちょっとだけやる気が出てきたので、後は家族次第といっている。このやる気が続くのも続かないのも家族の誉め言葉ひとつ、食べ方に懸かっているといってやった。煮豆も甘さもすごく控えめで作った。最近甘さが駄目でちょっとだけなら美味しいと思うものを買っていたのだが、美味しいと思わなくなったので作らざるをえない。今日ぜんざいを食べようとして、甘すぎて食べられなかった。きのうは大好きな桃カステラの甘さがくどいと思ってしまった。お店の作り方が代わったはずもなく、私の好みが変わってしまったのだ。つい病気かなという思いが心をよぎってしまうくらいの激変だ。少しずつ体重も体脂肪も落ちている。これが健康に問題がなくてなら嬉しいのだが。太極拳を始めたのが原因ならいいなと思っている。人には病院に行くように進めるし、お手伝いもするのに自分の事となると駄目。検査と点滴が苦手で、どうしようもなくなるまで行かない。でも念のため言っておくと食べて美味しいし、3度の食事を抜く事はない。私はお腹がすくとものすごく不機嫌になってしまうのだ。いまみかんとプリンにはまっている。今まで仕事で遠出した時うちの住人は和菓子をお土産に買ってきたが、このごろは美味しいと評判のケーキ屋さんでプリンを買ってくる。ますますプリンにはまる私。いいのかな。 |
1月24日(土) さだまさしコンサートチケットGET!Kさんごめん。多分取れないと思っていたら最後の最後で獲れた。見事に2階席の一番後ろ。でも金額は前も後もすべて同一金額。顔を見に行く訳ではないので良しとしよう。この前の先行予約のときやっとつながったと思ったら3回やり直した後切れてしまって悔しい思いをしたが、電話がデジタル回線でなかったのが原因だったらしい。5年前3月の末日引っ越してきて、4月に入ってコンサートがあることを知って買いに行っても手に入った。その後感じた事だがハッキリ言って彼は彼が長崎を愛しているようには長崎に愛されていない気がした。もっと評価されて良いのにと私はかなり不満だった。それがずっと不思議だった。昔を知る人ほど口を濁す。2年ぐらい前から切符がとりにくくなってきた。取り難いのはいやだが、それだけ評価が上がったと思って嬉しかった。8月の稲佐山でのコンサートももうずいぶん長い。直木賞より芥川賞のほうが上。歌謡曲よりクラシックの方が上。そんな変な考え方が見え隠れする。ある年齢以上の人の事だが。日本語の美しさと深さを彼の歌の中に感じて素晴らしいと思う。長崎は外から見るのと中に住むのではまるで違うものがある。開放的なように見えてかなり保守的な町のような気がする。素敵な女性が沢山いるのにまだ中心ではない。人のつながりも何処かで誰かとつながっているような良くも悪くも日本の一地方都市だ。暮らすには落ち着いて良い街だが、刺激的ではない。それを良しとするかどうかは人それぞれだろう。 |
1月23日(金) 今日も寒い一日だった。こんな日に限って出かけなければいけない用事が有るのが癪にさわる。暖かくして家にいるのが一番だ。仕事があるとこうは行かない。久しぶりに息子から電話があった。元旦の夜中に帰ってからずっと仕事だったとか、一日も休みがなかったが今日はこれから学生時代所属していたクラブの飲み会に行くと嬉しそうだった。高速道路が通行解除になったので行くと言っていたが、明日はまた雪とか。無事に帰り着けばいいが。先輩として後輩と飲むのはきっと楽しいんだろう。体育会系は先輩後輩がハッキリしているようだ。きっと今日は先輩風を吹かせておごってあげたりするんだろうなあ。微笑ましい気がする。仲間は大事だからね。大切にしてね。時には家族より頼りになるものよ。不思議に家族には言えない事も仲間には言えることって有るんだもの。「この杯をあけてくれ。どうぞなみなみ注がせておくれ。花に嵐のたとえも有るさ。さよならだけが人生だ」誰の詩だったかな。とりとめもなく頭に浮かんできた。昔、詩を読み漁っていた時代があったんだ。懐かしいなあ。友と沢山の思い出を作ることがどれだけ人生を豊かにしてくれる事か、思い出だけが人生さとつぶやく日がきっとくるから。 ことしになってメールがおかしい。ウィルス保護が懸かってないので使えないとかすぐ出てくる。黄色い!マークも良く出てくる。しっかりウィルス対策はして有るのに。インターネットの方はまるっきり何ともないのに、変。だからメールを今年はあまりしていない。しようと思うときに限って調子が悪い。この数日特におかしい。Gさんの一才の子のお誕生日のお祝いメールを久しぶりに動画で送ろうとしたらまた動かなくなった。山の上で雪のため家から出られない友達にもメールをと思うがままならない。明日もこの調子ならスーパーマンを呼ぼう。ウルトラマンの方がいいかな。でもウルトラマンは3分間しかいられないから無理ね。 |
1月22日(木) めったに積もらない雪に少し興奮する。朝から出かける身としてはちょっと、うっとおしいけれど、雪の白さは普段と違う非日常を目の前に見せてくれるマジックのようだ。九州とはいえ冬は寒い。東京からきた人が東京より寒いと言う。冬東京に行ったことがないので何ともいえないが、南国九州と思って暖かさを期待してくる分寒さが倍感じられるのかもしれない。人の感覚ってそんなものだもの。今日から長崎はランタンフェスティバルが始まる。観光にがんばる長崎としてはこれが人を集める催しとわかったとたん、力の入れ方が半端ではない。住んで5年、祭りがどんどん進化している。色々ゆう人もいるが、私は大賛成。この土地の狭さを思えばやれることは何でもやって活性化を図るのは当然だと思う。諫早や大村の街中の寂しさを思うと明日はわが身とならないようにがんばるのは当然。でもこの雪で点灯式はどうなったのだろう。たぶん観光バスが沢山きたはずだから、大丈夫だろう。立錐の余地もないくらい混んでいたら良いなと思う。 朝早く市場に時々出かけるが、そこで働く人の勤勉さに頭が下がる思いがする。若いお兄ちゃんたちも手を抜くことなく働いている。取れたての魚が買える長崎には、市場が沢山ある。他の町ではスーパーマーケットで買い物をするのが普通だったが、いまは個人商店で買うほうが好きだ。取れたての野菜。獲れたての魚。長崎に来て食生活が大きく変わった。いまは魚中心の食生活だ。今日市場の魚屋さんはほとんど休みだった。雪とはかけ離れた話になってきた。さやは雪が嫌いらしい。いつも朝窓を開けると外の土間に降りるのに開けた場所に近寄ってもこない。雪が降ると犬は喜び庭を駆け回り、猫はコタツで丸くなると言うのは違うようだ。 |
1月21日(水) 寒い・寒い一日だった。雪が舞っていたけれど街中は積もってはいない。暖房も今日はいつもほど暖かくならない。外の寒さが厳しいからだろう。今日は朝、用事が有って出かけたけれど、寒さで人が少ないと言う事はなかった。多いのに驚いたほどだ。デパートが店休日特売なるものをやっていたのでついでに寄ってみた。込み合っていた。みんな買い物が好きなんだ。外の寒さと裏腹にニコニコ楽しそうに買い物をしていた。私は何も買うものはなかったが、靴下の暖かそうなのが安かったので二足買い、ついでに紅茶が3缶よりどり千円だったのでそれも買った。紅茶は家族の大好きなものだから切らさないようにしている。ちょっと安すぎと思ったが缶に入ったそう悪くない品のようだ。日本人に知られたメーカーでないので売れないんだろうと思う。ここまで打っていたら紅茶が飲みたくなったのでちょっとお休み。 今日は家族は留守で、さやと私がお留守番。暖かいミルクティーは身体を温かくしてくれる。私たちが紅茶を飲む時はさやもお相伴で飲む。生意気にもさやは美味しくない紅茶は飲まない。出がらしはぜったいに飲まない。今日買った紅茶は買い得だった。ミルクティー向きだ。もっと欲しいとさやが催促にやってきた。さやは色々なものが好きで、さやのメロン好きは有名だ。さやちゃんにと言っていただいたメロンを何度美味しくいただかせてもらたことか。時々さやが好きなのは福沢諭吉だと言うと福沢諭吉がいただき物でくるかなと家族で笑う。さやがいてくれるからなんでも話の種になるし、一人でいても寂しくも怖くもない。家の住人も家に帰ってくる気になると言うものだ。たかがペット、されどペット、ペット侮りがたし。 |
1月20日(火) 今日はお花の日だった。作ったものはブーケ。花・花・花に載せよう。去年はサボってばかりいたので今年は休まないで出来るだけ行きたいと思っている。すればするほど難しい、しかしお花を扱うというのは気持ちのいいものだ。思うように花はいうことを聞いてはくれないが、気持ちの良い満足感は与えてくれる。もっと若ければプロを目指してなんて格好いいこと言いそうだが、駄目。好きということと上手と言う事は違う。最後はセンス。色使い、バランス、なんかは学ぶことで少しは見につくとしても、持って生まれたセンスがなければ広がりがない。私にはそのセンスがない。何人ものプロを知っているが、半端じゃないし、技術だけ有れば良いというものでもなく、仕事ともなれば大変なことも多いようだ。いまはブーケにしてもちゃんとしたそれようのものがあって楽になっているが、昔はお花の一本一本にワイヤーをかけてテーピングして組み立てていたのだから、大安の日なんか幾つものブーケを作るので腱鞘炎になるとぼやいていた事を覚えている。作らない私は友達が作っているのを横から眺めて楽しんでいたものだ。もっとあの時習っておけばよかった。教えてあげるというのにそんな面倒な事したくないなんてもったいない事をした。私のめんどくさがりは筋金入りらしい。 |
1月19日(月) 長崎に来てからあまり遠出をしなくなった。福岡に行きたいと思っても特急で2時間かかると思うと丸一日時間を作らないといけないのであきらめる。車がないので公共の乗り物を使って出かけるので、私が本当に行きたいところにいけないことが多い。普段は街中に住んで、車がないほうが便利な生活をしているが、自然を満喫したい時とか、歴史を尋ねてとか言う事になると難しい事になる。ちょっと時間が有るから行こうと言う事にはならない。今まで暮らしてきた町の中でそんな楽しみをしたいと思ったとき、長崎は一番車が必要だ。今まで車が有ればと本気で考えた事のない私が、時々車があったらいいなと思う回数が増えている。私は免許を持ってないし、うちの住人はバイクの免許しか持ってないから車がある生活がくる日はないだろうが、新聞を読んでいて行きたい場所とかが出来て、車でないといけないことがわかると辛い。長崎は地形的に他の町の人には理解できない事が多い。住んでみて始めてわかる事が有る。江戸幕府が出島を長崎に置いた事の意味が住んでみると実感できる。そんな風土が人の考え方に影響しないはずがない。長崎の人はこよなく郷土を愛している。住み心地の良い街だと思っている。住んで五年。私は長崎人になってきたようだ。長崎から出ない事にそれほどの違和感を感じなくなってきているからだ。自分の終の棲家がどこになるかまだわからない。長崎でもいいな。と、ふと思う。 |
1月18日(日) 午後から雨になった。用事で少し出かけたが、早々と帰ってきた。さやの散歩も無理かなと思ったが、雨の間を縫ってうちの住人が近くの公園に出かけた。白い毛が汚れて帰ってきた。時間が短くて物足りなかったのだろう、帰ってきて怒っていた。いまパソコンにむかっている私の横で気持ちよさそうに眠っている。寝顔は天使のようだ。この顔を見たら少しぐらいのわがままは許してあげようと言う気になる。 今日おもしろい事を考えて楽しんだ。私はいま幸せだと思っているが、不幸の種はないのだろうか、考え方一つできっと不幸になる要素はあるはずだと考えた。たとえばうちの住人は夕食の時ビールを飲む。これをもし不幸な考え方をすると「、毎日毎日自分ばっかりビールを飲んで何が楽しいのよ、いい加減に飲むの止めたらどう、少しは家計の事も考えたら、やりくりで大変な思いするのは私なんですからね」。大変忙しい仕事だけれど、天職と思っている仕事でがんばっている長男に対しても、不幸な考え方をすれば「仕事が大変でなかなか家に帰ってこれないのはわかるけど、長男が親の面倒も見ないでどうするのよ。少しは親の事も考えなさい。寂しいのよ」となる。愛犬さやだって、「犬がきたおかげで出かけられないし、あーいやだいやだ。人間だけでももてあましてるのに犬の面倒まで見られないわよ。少しは見なさいよ、あなたが。私にばかり押し付けないで」等々。まだまだ見方を変えたら作れると思うけど、不幸の種は作ろうと思ったら作れるという見本。私はいまうちの住人がビールを飲む姿があまりに幸せそうだから身体に差し障りさえしなければいいと思っているし、長男に対しては、自分の望む仕事に就けてよかったね、しっかりがんばるんだよ。離れていても応援しているからね。と、だけ思っている。さやのことは問題外。必要な時はペットショップに預ければ良いんだし、さやが来たことで貰った幸せを考えたらそんな事が言えるはずもない。ある意味不幸は気の持ち様というのはあったっている。でも、ただ気の持ちようといってしまうには重過ぎる。最後は価値観だろうと思う。なにが大事でなにが大事でないか、それを間違えなければ、人は決して不幸な考え方のとりこになりはしないと思うのだが。夕食の時私がこの話をして食卓が盛り上がった。時に発想の転換で、不幸の種的考えをしてみるのもおもしろいかもしれない。幾つ不幸を作れるだろうか。 |
1月17日(土) 暖かな一日だった。さやも公園で沢山遊ぶ事ができて嬉しそうだった。最近さやは自己主張が強くなって、なき方、あそぼうの催促の仕方が上手だ。始めは無視しているのだが、あんまり上手におねだりするので、ついつい遊んでしまう。3年前我が家にやってきたさやだが、もうさやのいない生活は考えられない。たぶんうちの子供たちはさやがきたおかげで夫婦仲良く過ごしてくれていると、思っているだろう。ただひたすら求める愛情というもののすごさを実感する。さやからそれを学んだ。人間はなかなか欲しいものを欲しいと率直にいえないものらしい。私は最近友達に好きな事、して欲しい事を何でも口に出せてうらやましいと言われる。見習わなくちゃとまで言われる。周りの人を隠れブタファンにしている事もそういわれる理由だろうと思う。私は心底人は口に出して言わなければ人にはわからないものだと思っている。以心伝心なんてものは努力した結果ついてくるもので、最初からわかるはずがない。さやの信じきった瞳は人の心を動かす。1年間にそうそう帰ってこない長男とさやの愛情はそれを証明するだろう。人が信じきった心を相手に表すには、それを表現する言葉という知恵を与えられているのだから、最大限使わないという手はない。 きょうトイレの花を買った。昼間撮ればいいものをやっぱり夜デジカメで撮ってしまった。スプレー薔薇とかすみ草。薔薇が固いつぼみなんだがどうも開きそうにないような予感がする。こうご期待。開いたらもういちど撮ろうと思う。トイレの花っぽくないところが気に言っている。そのうち花・花・花に乗せることになるだろう。 |
1月16日(金) いまメールをのぞいたところ友よりメールあり。素敵な花束の写真が添えてあったのでなにかなと思って読んだら、ご主人からの結婚記念日のお祝いだって。素敵なお話。そういう話って聞いてて気持ちが良いと思う。私まで幸せのおすそ分けをいただいたようで嬉しいな。 今日は雨が一日中降って寒い日だった。その雨の中、うちの住人と一緒にでかけた。おすしを食べるために。回るお寿司屋さんの今日は半額の日。お寿司大好き家族の我が家はこのときを待って出かける。息子は友達と約束があるのでパス。二人で久方ぶりのお寿司に舌鼓を打ってきた。そう多くは食べられなくなっているので、経済的では有る。昔好きだったうにとか食べたくなくなっているし、このお寿司屋さんは牡蠣があるので幸せ。生さばも有ったし、一皿に二個乗っているおすしを一個づつ食べるとちょうどいい。うちは外食となると中華か和食になる。間違ってもレストランと言う事はない。それはうちの住人が肉系を好まないから。刺身のないところにわざわざ行くまでもないと思っているようだ。一番好きなのは家で飲むビール。幸せそうに飲む姿を見ると、アルコールがだめな私はなんだか人生損をしているような気になる。 |
1月15日(木) |
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素敵でしょう。でも実物はもっと素敵。手にとってその肌触りが最高。Hさんというお友達の手作り。色のバランス、材質をとっても考えてあって、最高。なかなかこんな手作りをする人なんていないと思う。そして惜しげもなく人にあげる人もいないとおもう。もう感動!ありがとうHさん! 今日は仕事で出かけていたうちの住人が3日ぶりに帰ってきた。家は良いなあと言いながら美味しそうにビールを飲む。今日はお昼に私は美味しいものを食べていたので、うちの住人の好きなものを買いに行こうと思っていたが、用事で出かけた後、もう一度買い物に行くのもめんどくさかったので私の得意の言葉「あるもの」という事にした。冷蔵庫に入っていたものを全部出して並べたものを美味しそうに食べる姿にちょっと良心が痛んだ。好きなお刺身を買っておけばよかったと思った。出かけた帰り魚屋を見たことは見たんだが良いものがなくて荷物も一杯持っていたから出直そうと思ったのが失敗だった。でもご馳走よりさやが横にいて私とおしゃべりを楽しむ方がリラックスできるんだから、良いとしよう。いくらでも話して、聞くから。いい奥さんであるというのはその家その家で違うわけだから、うちは楽しいおしゃべりが一番のご馳走としたら私はいい奥さんである事に間違いはないと思う。おホホ! |
1月14日(水) 昨日はインターネットが突如ストライキを起こしてつながらなくなった。調べたい事があってあっちこっちサイトを開いていたら、とても重いサイトにであい、しびれを切らして閉じたら他のサイトまで開けなくなった。いろいろやってみたがどうしても調子が悪いのでHPの更新もやめた。そのおかげで洋服を縫おうという気になって押入れをかき回してみた。今年は長めのスカートにしてみようと思ってイメージチェンジだ。この前のクリスマスにワンピースを着たら評判が良くて、単純な私はそれなら今年はそれで行こうと思ったわけ。単純単純。知っている人が黒留袖でスカートを簡単に作っているのを見てこれならやれそうと思ったのも作る気になったひとつ。でも布地は山ほど有ったが、いま作りたいと思っているスカート生地はなかった。仕方がないので今日出かけて買ってきた。今までこんなに簡単な物は作ったことがないくらい簡単に作った。明日友達がなんと言うか楽しみだ。見るに耐えるものならまた同じようなものを作ろう。型紙を取ったり、きりびつけをしたりしつけをかけたりという作業は苦手だ。必要ならするが、手を省けるものなら手を抜くという私のポリシー(ちょっと大げさかな)はこんなところまで進出してきている。この冬味噌を作る予定なのだが、もう一月も半分過ぎた。みんなにするすると言っている手前、これは手を抜けない。しなければ女がすたるというものだ。自分のためにも10キロ作ろうと思っている。ヨーグルトも種を貰ってきたので作ろう。そう、私は何度も言ってきたが、やる気なればできる人なんだ。そのやる気になるのが、大変なのだが。 |
1月12日(月) 今日は成人の日、国民の祝日だ。長い間15日が成人の日だった感覚が強くて連休を増やすために変動性を決めたいまの成人の日はなじまない。町には振袖姿の女の子が多かった。彼女たちの親はがんばって振袖を用意したんだと思うけれど、一人一人は綺麗で可愛く素敵なのだが、本音を言うとみんな同じに見える。繁華街に近い場所に住みつづけているおかげで、毎年数多くの成人を見るが毎年感想は同じ。最近の流行はさくらと白い毛足の長いショール。漆っぽいカラフルなバック。うちは男の子だったから着物の用意は要らなかった。やっぱり女の子がいたら振袖を用意したのかな。普段は女の子もほしかったというのにこんな時は男の子でよかったと思う身勝手さ。途中から雨が降り出して気の毒だった。素敵な大人になってね、と言っておこう。 親しくしている人のお母さんが昨日なくなったという連絡を受けて、うちの住人は久留米に出かけたので私もなんとなくしんみりした一日だった。急なことだったようで心の準備ができてない分辛さも倍になるだろうと思う。人はいつか死ぬ。わかっていても、愛する人を亡くす悲しさ寂しさはたまらないだろうと思う。まだ子育て途中の彼女にとってお母さんの存在は大きかったはずだから辛いだろうなあ。私は二人目の子が生まれて2ヶ月めに母を亡くした。母が大好きだった。病気がちで長い闘病生活に最後は見ていられない位ひどかったから、亡くなったときはもうゆっくり休んで頂戴、良かったね。と、心から思った。それでも、母が生きてくれていたらと折にふれて思ったものだ。辛い時より、私が喜びにあふれていた時ほどそう思う。母がいたら一緒に大喜びしてくれるだろうと思って。彼女もこれから折にふれてお母さんを思うだろう。がんばってね。生きている人間は先に逝った人の分まで幸せにならないといけないから。 |
1月11日(日) 今日はちょっと頭にきた。コンサートチケットの先行予約があるので本当はかなり沢山のお昼の用意をしなければいけないので時間がないのに、その分早く起きて準備して時間を作ったのに予約できなかった。10時から10時20分までがんばって電話をしつづけた。その時間につながらなかったらあきらめるつもりだった。最後の一回もうこれでやめようというときつながった。つながったとたん嬉しくて相手の音声ガイダンスに従っているのにうまくいかず3回やり直しても駄目。4回目に切れた。家の電話がデジタル回線でなかったのが原因かもしれない。でもそうならそうと最初から言ってくれていれば私はしなかった。つながってなければあきらめた。先行予約の広告を後でよくよく見たら、主催者の新聞購読者対象と言うが、そうでなくても出来るシステムだった。怒り心頭。だまされた感じ。こんな新聞止めてやるという心境。その後色々有ったので忘れていたが、いま思い出してむかつく。 最近昔ほど血の気が多くなくなったのか、いきどうら無くなくなったと思っていたが、自分が理不尽と思うことに対しては早々引き下がりたくない気がする気持ちは健在のようだ。譲れる事は何でも譲る。でも譲れない事は譲らない。あたりまえの事だが、それを忘れたら何のために生きているかわからない。すべてをなし崩しにされたくはない。私にとって譲れない事とはなんだろう。それは人としての尊厳。それ以外はたいした事だとは思わない。私は人の弱さのゆえに犯した罪は心から後悔すれば許されると思っている。私のしたことも許して欲しいし、私も許したいと思う。ちょっと禅問答的になってきたが、私の中に明確な線があってそれさえ超えなければどんなに怒っても許せるということ。これをしたら駄目とかあれは良いとかそんな具体的な形ではないのだが、私の中では明確にあるということ。まあそういうことを考えていたら今日のむかつきなんて可愛い可愛い。 |
1月10日(土) 和紙でできた紫色のブタをうちの住人が見つけて買ってきてくれた。我が家には数え切れない数のブタがいても私がまだまだ見たこともないブタがいる。ブタコレクターを自認している私が感心するのだから世の中広いと言う事だろう。最近婦人層にブタにはまっている人が増えたとその店の人が言っていたそうだ。同病相憐れむ、ではないがヨシヨシと言うところだろうか。 明日お雑煮を人に食べさせる事になっていて、いま準備が終わったところだ。我が家のお雑煮は、ぶり・かつお菜・里芋・椎茸・かまぼこが入り、だしはあご(飛魚を干して焼いたもの)と昆布と椎茸でとるかなり濃厚な、でもあっさりとしたお醤油味のお雑煮だ。ぶりは4分の1買って塩をした。新鮮でないと生臭くなるのでこれはちょっと奮発する必要がある。野菜も湯でたり下準備OKだ。料理には手を抜く私だが、お雑煮だけは手を抜かない。丁寧に作る。どうしてだろう。今日は今年初めてのカレーを作った。人が聞いたらびっくりする作り方をするが、私はとても美味しいと思う。たまねぎを沢山使い決して炒めない。ゆでるだけ。肉は食べる直前に入れる(安い肉は煮すぎると堅くなるから)。昔息子がみんなとそれぞれの家のカレーについて話したとき家のカレーの作り方を言ったら、信じてもらえなかったと言っていた。今はいい加減な作り方と手抜き料理の達人だが、人から料理名人と言われた時代もあったのだ。息子のお嫁さんはお母さんが料理上手でかわいそうとまで言われたのに、今はその面影さえない。いつか来るお嫁さんのために私は賢い選択をして名人の名を返上したことにしておこう。間違ってもめんどくさいからと言う真実は伏せておこうと思う。エエ! 何時もたいしたことを書いているわけではないが、今日はいつにもましてたいしたことを書いてないのが自分でもわかるだけに、どういう風に終わろうかと内心あせっている。こんな時が有ってもよしで終わろう。 |
1月9日(金) 今日は少し寒かったし、夕方からは雨まで降ってきた。十分走り回っていないさやがちょっと欲求不満らしく、ボールを私の前にポトンと落として遊べと要求してうるさいこと。無視していたらなんとも知れない声でまた訴えてきた。少し遊んでやろう。 今日は自分なりの予定を立てていたが予定は未定であって決定にあらずという言葉どうり、まるっきり違う一日になってしまった。でも楽しかった。もともと働き者ではない私だからのんびりぼちぼちやっていくのが一番。今日は番外で友達とおしゃべりを楽しんだが話していくうちにまるっきり忘れていた事が、連想ゲームのように次から次に思い出されて話が弾んだ。昔話で盛り上がるのは、年を取った証拠かもしれない。時間が過ぎれば年をとる。あたりまえの事だ。でも、若いから良い何て言うのは間違っている。若い時の私よりいまの私のほうが自分でも好き。重ねていく良さに若さなんてかなうわけがない。ただ若いと言う事はキラキラ輝きまぶしい事は事実。でもキラキラ輝いていない若い人が多すぎる。もったいないと思う。ファッションやメークで明け暮れてプランド物が勲章のごとき若さなんて情けなさ過ぎる。人はこの世の地位や学歴によって人を見すぎる。私はうちの住人や子供たちにはすべてのものを取り払ってもきらりと光るものがある人生であって欲しいと願っているし、私自身もそうでありたいと願っている。 今日デジカメでとってパソコンに保存している写真を見ていたらトイレの花が何枚かあった。私はトイレにだけはお花を絶やさないようにしている。たいした花ではないが。一年間撮りつづければ結構沢山の写真になる事だろう。でもすぐ忘れる。それもこれもデジカメが苦手なせい。「花・花・花」に載せよう。「日々の思い」以外更新が少ないので、ちょっと気がとがめるので。 |
1月8日(木) ハロッズにぶたがあるとは思わなかった。ハロッズのくまはよく知っていたがぶたが居たとは。お友達から貰って嬉しかった。とってもさわり心地が良くてほおずりしたくなる。外国では赤ちゃんが生まれたらその子のためのティディベアを送ると言うが、ティディブタでもいいはず。自分が想像もしていないブタをいただくと嬉しさが倍になるような気がする。ありがとう。とにかく早く「こぶたたちの部屋」をがんばって更新しなくてはと思う。 今日は今年初めてのパソコン教室。エクセルをいろいろな形で習っている。始め私はエクセルはおもしろくないと思っていた。私の生活に役に立つとは思えないし、私向きではないと思っていた。ところが、なかなかおもしろい。ちょっとしたゲームをしているような感じ。ものすごく実用的で、あらゆる可能性を考えてあるというのがすごい。当分エクセルを習う事になるのだろうが、沢山遊ぼうと思う。今日は電話で友達と久方ぶりに長話をした。長い人生には色々な事があるが、私の知っている人はみんな幸せであって欲しいと祈っている。 |
1月7日(水) 今日午前中デパートの定休日特売なるものに行った。贈答品半額セールというのに興味があって出かけた。のりが欲しかったからだが、いったがもうなかった。普段お目にかからないタラバガニの缶詰が飛ぶように売れていた。半額と言っても元が高いから手が出ない。冬物商品がずいぶん安くなっていたが、見ても欲しいと思うものもなく、何も買わないで帰ってきた。いま私は欲しいものが何もない。ちょっとショック。陶器売り場で良い物をみて、いいなあとは思うがなにが何でも欲しいとまでは思わない。今貰って一番嬉しいものはプリンとブタだけ。あれほど好きだった和菓子を買ってまで食べようと思わなくなったのが自分でも理解できない。昔から私を知っている人は私の和菓子好きが半端でない事を知っている。いろいろな人からお土産でいただくことが多く、お菓子に関しての知識も人一倍と自負している。お正月明け松山のお土産に一六タルトを食べた。カステラとあんこの巻き方が絶妙で昔から好きだった。一切れ美味しく食べたら満足して二切れ目に手が出なかった。私のお菓子好きを知っている人はどうしたのと言うだろう。少し前の私ならちょっと食べ過ぎよねなんていいながら三切れは食べているはず。おはぎなんてあるだけ食べてしまう。それが今は夜十時のティータイムでも紅茶だけでお菓子はノウサンキュウだ。体調不良のときお菓子を控えるようにと言われた時でさえ、食べないでストレスになったと言うのに。今、嫌いになったわけではない。いままでのように沢山食べたいと思わないようになっただけだ。ある意味人並みになっただけなのだろう。人間は面白いものだと思う。 |
1月6日(火) 今日は嬉しい便りが有り、幸せ。結婚してアメリカで生活している若い友からの近況報告が届きとても嬉しかった。と言うのが、彼女に娘が出来たと聞いたのでお祝いに雛人形は贈れないけれど、布に描かれたお雛様を送ろうと思って用意したら、彼女の住所が行方不明。住所録に後で書こうと思ってはさんでおいたものが、どういうわけだか見当たらない。どんなに捜してもわからない。気になりながらそのままになっていたのでとても嬉しい。子供たちの近況もかかれていてずいぶん大きくなっていて懐かしい。才能豊かな人で日本に居た時もものすごくがんぱって居たけれど、アメリカに行ってもっと素敵な活躍をしている近況が眩しいくらい。今は女性のほうが輝いている人が多いような気がする。男の人に対する社会の締め付けは想像を絶して大変のようだ。 今日うちの住人が私のお気に入りのお菓子が珍しいし、美味しいのでそれを人にあげたいと言う事で、さやを連れて散歩方々買いに行った。ところが12月末で店を閉めて、郊外に移転していた。素敵な店が、街中を見捨てて郊外に移っていく。特に美味しいと言う評判の店は街中になくても、車社会はみんなが出かけていく。所がうちのように車のない生活をしているとドーナツ化現象は有形無形の不便を誘う。私の卒業した小学校も中学校も今はない。街中の小学校だったが、子供たちが居なくて3つの小学校が統合されてしまった。中学校も同じ。長崎に来る前に住んでいたところも大型スーパーにみんな取られて、デパートは閑古鳥が鳴いていると聞いている。便利かもしれないが、大事な物も無くしている様な気がして寂しい。 |
1月5日(月) 今日は良い一日だった。さやはお兄ちゃんからお年玉を貰ったので早速美容にいそしみ、綺麗にカットしてもらいシャンプーのおかげでぴかぴか。年末予約をとるのを忘れて綺麗に出来なかったので、年明け早々綺麗にしてきたというわけ。良い匂い。毛並みも綺麗になってさすがプロ。昨日からお出かけのうちの住人を迎えに駅まで出かけるためにしたようなものかも。うちの住人はさやが駅まで迎えにきてくれるとどんなに疲れていても吹っ飛ぶというので家族の平和のため、私は付き添いとして出かける羽目になる。今年初めての太極拳もあったし、身体を動かす事は気持ちいいものだ。若い頃スポーツをしたことない者にとっていまさらスポーツでもないが、太極拳はそんな私むきのようだ。ゆっくりした動きの中に深さがあって、太極拳をすると体調がすこぶる良い。お薦め。夕食は結局9時ぐらいからになったが話に花が咲き、おまけにHさんからいただいたサザエの美味な事。いつもならサザエ大好きの私が多く食べるのだが、今日はよっぽど美味しかったのだろう、うちの住人の方が多く食べた。疲れて帰ってきたのを知っているので今回に限り気持ちよく譲る事にした。Hさんありがとう。ご馳走様。うちの住人のお土産は私がいまはまっているプリンとぶた。「がまぐちぽけっとぶた」と言う名前のついたポシェット。すごく可愛いけど、間違っても持って出かけると言うわけには行かないと思う。危ない人に間違えられたくないから。最新のぶたコーナーに早く乗せなくちゃ。かけごえばかりでなく・・・・。誰か、デジカメの上手なとり方をご伝授してくれないかなーと言うのがいまの願い。よく商業写真家が雑貨なんかを魅力的に取るというあれ。デジカメを買い換える時かなあ何てデジカメのせいにしたり。いえいえ私の腕のせい。 お正月気分も薄れてきて、今年はいつもの年より一味違う年になりそうな予感。抱え込んでいたスランプから抜け出せそうな気がする。 |
1月4日(日) クリスマスが終わってからお正月まで、久方ぶりにゆっくりする事が出来た。のんびりしすぎて、ちょっと気がたるんじゃったみたいで今日大事なことを忘れてしまった。本来私の仕事ではなかったのだが、何時もサポート体制だけは忘れないのに昨日まで覚えておいた事を間際に忘れるなんてお正月ボケ。しっかり。若いころならパニックだけど、そこは年の功少々の事ではパニックにならなくなったのはいいことかどうか。パソコンでも最初のころは止まったり変な指示が出たりするとパニクッテいたが、いまはならない。どうにか自分で直そうと思うところはすごい進歩だと思う。事実、インストールしなおしてみたり、本を読んでパソコンを扱ってみたりする。またそれが楽しいのだから我ながらすごいと思う。でもまだ私はビデオの予約が出来ないし、FAXの機能も上手に使えない。息子に言わせたら、覚えようという気がないからだそうだ。確かにそう。興味のないことはなかなか覚えられない。いまでもHPを自分が作っている事が不思議な気がする時がある。タイピングも決して早くはないが見ないで打てる。パソコン教室のO先生とI先生のお蔭だ。習うと言う事はすごい事だと思う。もっと早くこのことがわかっていたら、勉強したのになと思う。筋金入りの勉強嫌いだった私としては後悔先に立たずの言葉がみにしみる。1日目からエクセルで金銭出納帳を作って付け始めた。後で集計しやすいように細かく記入している。一ヵ月後が楽しみだ。 |
1月3日(土) 今日でお正月は終わりのはず。3日間のんびりゆったりすごしてやる気が出てきた。明日は今年最初の日曜日。でも今日が日曜日のような気がして、明日は月曜日のような気がする。曜日感覚が変。ちょっとのんびりしすぎたかもしれない。一月二月はどちらかと言えばひまな月のような気がするので、家の模様替えなどしてみようかと思っている。おまけに縫い物などもしたい気がして、これもちょっと変。変変変で気がついたらもう年の終わりになっていたなんてことだけにはならないように気をつけよう。1月3日に書く言葉ではないが。正月ぼけだと言う事にしておこう。 |
1月2日(金) 福袋を買った。私はハムの福袋。うちの住人は資生堂パーラーの福袋。あまり夢のあるものではないが、開けてみて大喜び。特にうちの住人の方には資生堂のカレーが入っていたので大喜び。と言うのは前から食べたいと言うのをレトルトカレーにそんな高いお金を出すのはもったいないと私が買わなかったから。明日、早速食べる事になった。お正月だから出来る事。それもこれも長男からお年玉を貰ってちょっとばかりルンルンのせい。私は記念に湯冷ましの陶器をひとつ。一日に何度も使う大事なもので、この前うちの住人に割られてから、気に入ったものに出会わなかったので不便だったから、欲しかったもの。一日に何度も飲むお茶はそう丁寧に入れるわけではないが、湯冷ましにいれてから急須に入れたものの方がやっぱり美味しい。日本茶がないと生きていけない。コーヒーを飲まないと目がさめないという人が私の周りに多いが、家にはコーヒーがない。昔は来客のために用意していたが、自分が飲まないものは上手に入れられなくて、美味しくないのでやめた。お茶か紅茶でもてなす事に決めてから、コーヒーは買わない。最近インスタントコーヒーをいただいたがこれをどうしたものか。周りのコーヒー好きはインスタントを使わないから欲しがらないだろうし、コーヒーゼりーを作るにしても毎日食べたくはないし。コーヒーはお店で飲むか、人のうちで飲むものと決めている。冷蔵庫の中は普段に比べていろいろなものが入っている。私はあるものを使って作るのは得意中の得意だから、当分の間食費がかからなくて嬉しい。今年から金銭の出し入れれも、きっちりつけようと思っているので今年の目標(生活を質素に、手作りに励む)は楽々クリアだろうと、はじまったばかりで大口をたたいておこう。昨日今日と書いたものを自分で読んでみると夢のないこと。新しい年の訪れに対する、畏敬の念がどうも薄いようだ。 |
1月1日(木) 気持ちのいい朝。我が家はこれといったお正月をしない。お雑煮はぶり雑煮を用意するしがめ煮も用意する。黒豆、かまぼこ、数の子、等々おせちの中身ももちろん用意するが、それだけ。 昔からどういうわけだか、大晦日の夜、家族の好きなものをテーブル一杯並べ,飲み物も好きなだけ飲んで良いし、途中でテレビを見ようが寝転がろうがお構いなし、普段食事の時許されない事もOKと言う我が家独特のやり方があり、家族が揃っていた時には紅白を家族でああだこうだと言いながら見ているような見ていないような時間をすごした後、息子たちと新年を迎えた町をぶらぶらするのが恒例だった。色々な話をしながら夜の町を歩くのは本当に楽しかった。したがって元旦の朝は遅い。親は恒例(?)の年賀状書きをして郵便局に行くのが元旦の我が家。夜お雑煮とおせちもどきをいただく。 今回は29・30・31日の3日間長男が帰ってきて家族が久しぶりに揃った嬉しさで、2003年から2004年に変わった時間に仕事のために長男が帰っていったとたん、もうお正月は終わったようなものだ。さやの散歩方々町を歩いたが、昨年より元旦から店を開けている所が多く人も驚くほど多かった。着物姿はほとんどなく、破魔弓を持っている人がいることでやっとお正月という感じだ。車も多いし、元旦の朝の静寂も何もない。ちょっと寂しい気がする。明日はもっとたくさんの店が開くので、息子からお年玉を貰ったので、何か記念になるようなものがあったら小さいものを買いたいなと思う。今年は質素な生活を志したいと思っているので財布の紐は締めておこう。 |
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2003年9月21日−12月31日 |